私は「最後の審判」を信じていません。
でも何らかの人生の時点で、鏡の前に立ち止まって自分自身を見つめるときが来ることはあると思っています。
そんなとき、これまで何かをやろうとして、何度も失敗したけど、
行動に移した数々のことを思い出すかもしれません。
「100やりたかったことがあるとすれば、5しかできなかったけど、行動に移すことができて有意義だった」と思えるかもしれません。
でも反対に、
「私は人生で何もしてこなかった」
「私の人生は浪費の連続だった」、
「誰に対しても、手を差し伸べなかった」、
「誰かのために時間を費やすことなんてなかった」と思うこともあるかもしれません。
そんな人は、鏡の前に立ち止まったとき、自分の姿を見て失望するでしょう。そこに映っているのは、自分のエゴイズムでしかないからです。
・・・・・
きれいごとに見えるひとになってはいまいか?
かっこいい事いうひと、にみえるひとになってはいまいか?
ふと立ち止まり、後ろを振り返ると自分の立ち位置がよく分かると思います。
ついて来てくれた人がいます。
時に、選択を強いられる立場、局面もありますね。
いつも選択の連続です。